daiou_gusokumushi’s blog

フィクション

私と太宰治

 最近は『文豪』という概念が再注目されているようだ。一口に文豪と言っても毛色も様々でそもそも文豪という言葉自体定義があやふやなのだが、私は日本語の専門家でもないし、日本語なんて突き詰めれば正しい定義などない言語だと思っているので、言葉自体にあまり深く言及するのは止めておこう。

歴史上の人物に改変を加えて漫画やゲーム、アニメというメディアに変換をする行為自体は今のご時世別に珍しくも何ともないのだなあと思う。そもそも人間というのは昔の出来事、人物、世界観なんかを掘り返してどうたらこうたらするのに興味があるのだろう。それだけなら私の記憶が正しければ日本では平安時代ごろに確立していた筈だ。歴史に肯定的であれ否定的であれ、「むかしのできごと」というのは現代に一定の距離感を保ちながらも離れられないのだとも思う。

 

話を戻そう。

私もある文豪擬人化(キャラクター化)漫画のファンの一人でもあり、プロフィール欄の趣味の項目に「読書」と書くタイプの人間でもある。文豪(ここでの意味は一般的に文豪と言う言葉があてられやすい明治~昭和あたりの教科書によく出てくるような作家のことである)の中で一人選べと言われれば迷わず太宰治を選ぶ。定番だと言われれば定番の回答である。

とはいえ、私は太宰の作品を全部読破したこともなければ記念館にも墓にも行ったことはないし、彼の生涯についてたいした知識はない。精々、教科書の「作者」の欄に載っているような、愛人と共に入水自殺をして亡くなったとかそれくらいの情報しかない。なのでこの文章に載っている情報は文章を書くにあたって私がネットで適当に検索をかけて適当に文章にしただけのいわば付け焼刃の情報である。

彼の作品についてこうして言葉にした経験はほとんどない。友人に言うような話でもないし、彼については作品の雰囲気とか死因なんかの要因でマイナスのイメージが多いように感じる。それが私の、彼の作品に対する解釈に影響を与えていることはあまりないと思うのだが、世間話にするような分類の話ではないのだろう。そもそも彼のマイナスのイメージの理由は一体何なんだろうか。これはあくまで私個人の考えなのだが、主な理由はやはり彼の代表作にあるのではないのだろうか。『人間失格』かなりの知名度を持つこの作品、タイトルを裏切らずなかなかに人間が失格なお話である。小説でも注目されやすい本文第一文が「恥の多い生涯を送って来ました」なのだから本文を全てを読まずとも、少なくともこれが例えば主人公の英雄譚か何かであるとは誰も思わないだろう。

ただ彼の作品の中には主人公の英雄譚と言える作品も存在する。教科書でもおなじみの『走れメロス』なんかがそれだ。誰もが知っているような作品なので詳しくは省くが、『人間失格』が全体的に右肩下がりな物語だとすれば『走れメロス』は全体的に右肩上がりな物語である。どちらの作品も作者は誰か?と聞かれれば大半の人は答えられると思うが、この二つの作品が同一人物によって書かれた作品であると意識すると、何かチグハグした感情に襲われる。彼がどういう感情で作品を書き上げたのか今となっては知ることはできないしそれを議論するつもりもないが、その結果彼の作品に対するレッテルが現代でも存在していることは認めるしかないだろう。

ちなみに、私が太宰の作品に対する所謂感想というものを他人に大っぴらに話したことが一度だけある。高校受験の面接のことだ。私は緊張にあまり強いタイプではないが、一度の本番の為にせっせと準備をするようなタイプではない。つまり面接で話す内容をほとんど考えていない状態で本番に臨んだのである。挨拶と簡単な自己紹介のあと、面接官が言った質問は「趣味は何ですか」だった。私はしめた!と思った。その場で小躍りでもしたい気分だった。何の迷いもなく「読書です」と答えた。面接官もターゲットと絞ったのかニヤリと笑ったように私には見えた。その後の「一番好きな本は?」という質問に私があげたのが太宰治の『斜陽』だったのである。

『斜陽』とは終戦を迎えた日本に多大なる影響を与えたと言われるこれまた太宰の代表作の一つである。当時は、所謂ベストセラーと呼ばれた作品でこのあと太宰はベストセラー作家として作品を世に送り出していくわけだが……正直そこは話の趣旨からズレるので割愛する。どんな物語かというと、単純に言ってしまえばある貴族が没落していく話である。……いや、さすがにそれは無いだろという雑さかもしれないが実際事実だし、たいてい文庫本なんかの後ろに書いてある説明には「貴族」「没落」「終戦」というキーワードが使われているのがこの作品なのである。現に私が中学3年で初めて読んだ文庫本にもそんな文章が書いてあった。

 

テンプレートな言葉を使って申し訳ないのだが、この作品を読んで最初に思ったことと言えば「こいつ(作者のこと。失礼だな)本当に男か?」である。太宰のファンである方がこのブログを読んでいるのならばすぐにわかると思うのだが(そんな人に読まれていると考えたら正直鳥肌が立つが)太宰の作品は女性目線のものがかなりある。私は戦争を経験した年代でもないし、この時代の口調や文化に詳しいわけでもないがこの女達は確かにこの時代を生きていたのだろうと思わせてくれる何かが、太宰の作る女性像にはあるわけである。取っつきやすいかと思って女性を焦点として話を始めたが、私がこの作家が作る物語が好きだと思わせるのは、女性という区分に限らずたぶんこういった自然さなのである。

 

という感じの話を面接でペラペラとさも、まじめで本ばかり読んでいる優等生といった身振り手振りで話したのである。どうでもいいが、その高校には無事合格した。そんな話をしていたらなんだか一人で盛り上がってしまい、結局面接官に太宰治を進める回し者のようになってしまった覚えがある。我ながら意味が分からないしこんな奴を合格させてしまった学校側も学校側だと思うが、過去の話である。

 

面接の話はこれくらいにしておこう。これはネットなんかでも聞いたことがあるし、太宰の作品が収録された文庫本の解説にも書かれていたのだが、太宰の作品には読者全体ではなく今、この本を読んでいる自分という人間にだけ語られているという優越感があるのだ。この文章だけ読むと何のこっちゃという感じだが、要するに太宰の作品は面白いを思うかは人によって差があるが、もしも面白いと自分が感じれば全人類の中で自分だけに与えられた唯一無二の権利であると思い込んでしまう力がある。

 

詳しいことは知らないが、太宰の書く文章は基本的に読者に語り掛けるような文体で書かれている。わかりやすいもので例えると、昔話みたいな感じだ。むかしむかし、〇〇がいて△△して××と思いました~みたいな文である。嘘だろと笑っている人もいると思う。だが彼の作品をいちいち引用してこれはどうだあれはどうだと解釈の書くのは面倒だし、なんだか授業臭いし第一に私らしくない。なのでこの「自然さ」というものについてもう少し、黒歴史である面接の記憶を掘り返しつつ掘り下げてみる。

 

基本フィクションの物語には、都合のよさという概念がある。フラグと言ったほうがわかりやすいだろうか。こいつはどうせ仲間になるんだろうとか、あいつは実は裏切り者だろみたいなアレである。物語を物語として確立するための要素の一つではあるのだが、あからさま過ぎるとそれは物語ではなくただの出来事の記録になってしまう。だが、現実はそうはいかない。伏線っぽい出来事に遭遇してもシークレットイベントは起らないし、突然異世界にトリップもしなければ、未解決の殺人事件がごまんとある世界が現実であり真実である。

それでも、一人きりのリビング、授業中に窓から見る青空と雲、久しぶりにみた学生時代のアルバムの笑顔、家族の小さな気遣いなんかにいかにも物語染みた「センチメンタリズム」してしまうのが人間なのである。理不尽と不条理と現実と妄想と空想と欲望の隙間の何かに存在する物語。それが本当のフィクションの現実であると私は思いたいのだ。

 

太宰の作品を読んだときに生まれる言葉にできないような、いや言葉にしたときに零れて落ちていく欠片のような感情が私は好きだ。実を言ってしまえば、私の読書の楽しみというのは、本自体の面白さではなく自分がそれを読んだことで生まれた感情の面白さである。実際、本というのは一つの道具である。書かれることで、読まれることで、はじめて価値がつく代物である。まったく、こんな価値のあやふやなものが本屋なんていう全国ある店で売られているとは人間は意外と物好きだなと思う。忙しい忙しいと言いつつ、本屋が世界から無くならないのは人間の甘さと許容の一つの形なのかもしれない。

恰好つけて、気障なことを色々言った気がするが半分以上は出鱈目である。というか気障という言葉を使うのが気障だ。言葉に負けている。いけない、いけない。まるで少女漫画のようなセリフだが本来好きに理由など無いのだ。好きだということを伝えるために、古くから様々な言葉を生み出してきた日本も結局はただの自惚れと自己満足の塊だ。百人一首なんて現代語訳したら恥ずかしくって札なんて一枚も取ることができなさそうだ。伝えたくて伝えたくて、でも伝えられない。そんな感情は、悔しさと同時に優越感がうまれる。歴史で習うような形式的な物以前に、人間には感情の所有権が産声をあげた瞬間から存在するのである……

 

 

 

 

 

 

 なんちゃって。